1580年、石山合戦の終わりのときでした。
信長と本願寺との和睦が成立し、本願寺第11代の顕如上人は、大坂本願寺(今の大阪城)を退去し、紀州鷺森(さぎのもり)に移ります。
長男の教如上人は、御真影(ごしんねい)の御座所跡を仏敵・信長軍の馬の蹄に汚されたくないなどの理由からこれに反対し、徹底抗戦を主張して籠城します。この親子の対立が、本願寺の分裂の始まりです。
1582年、本能寺の変で信長が没し、秀吉の時代となりました。
本願寺は、鷺森から貝塚・天満・京都へと移転します。
1592年、顕如上人が亡くなり、教如上人が後を継ぎますが、教如上人の母が秀吉を訪ね、弟の准如上人への「譲状」を提示します。
その譲状は儀文書とされていますが、秀吉はこれを受け、教如上人は隠退を余儀なくされました。
しかし、その後も教如上人は活動を続けます。家康は二分された教団の状況を追認し、1602年、東本願寺の寺地(京都・大谷)を教如上人に寄進します。
東西本願寺の分裂には、家康の政治的意図がはたらいたとの見方がありますが、どうだったのでしょうか。